教育や家庭環境のあり方がわいわい騒がれる。

先生がなかに入

これほど大きくはないが、ほとんど毎日のように何かが起っていた。そして戦後何十年かたったのにその状況はあまり変っていない。まず旅館の話を聞くと、修学旅行の生徒は物を盗る。灰皿を持って行く。ひどいのは敷布から枕カバーまで持って行く。それで枕カバーは紙製にし敷布は全部くくりつけにするようになった。子供たちは修学旅行の後で、分捕り品をくらべあい、青春の思い出だなどと自慢しあうらしいが、盗られる方は大迷惑である。
旅行の時でなくても慢性的な万引きの流行がある。
子供がやがて

父親でした。

比較的安いものばかりだけれど、みんな店先に並んでいるから、中学生の集団が五、六人、前を通ったなと思ってパッと行ってみると、もう幾品かない。実にやり方が巧妙になったという。お菓子屋さんでも、チョコレート、キャンディ、チューインガムなど、まるでお小遣いを浮かすのはこの時とばかり、ただで盗ってゆく。そこには罪悪感よりも功利的な計算が先だっらしいという。
次に修学旅行で多いのは喧嘩である。私も実際に新京極で、どこかの中学とどこかの中学がにらみ合っているのを見たことがある。京都の町のひとは旅行者を扱いなれているので、引率の教師が注意しなくても、ここは喧嘩の場やあらへんと怒鳴ってやめさせる石など飛ばされ、ガラスを割られてはかなわないからである。そして生徒たちは、注意はわりによく聞く生徒が先生をバカと怒鳴ったりするのも、先生は何を言っても怒らないという甘えがあるからだと思う。

 

子どものときの楽天性は大切だ。

親に対しても、お母ちゃんのバカお父さんのバカと甘ったれて怒鳴る子がいるが、甘ったれて相手をどんなにやっつけてもいいのだというような人間関係はよくないと思う。それが一つ許されると、今度は親の方からも親子心中という形などで、子供を死の道連れにしていくことにもつながっていく。
子供は大きくなっていく間、自分自身についていつでも不安で、情緒が不安定なので自分が何をしても許されるものを求めたい。
学習の原理を知らないで失敗する
母親が不満ばかりを持っていて

子供に教えることによって親も教えられるのです。

それが教師であり、親であるわけだけれどその不安や動揺を支える形は、甘えだけであってよいかどうか。教師も親も子供が自分に責任を持って生きられるように、絶えず子供をはげまし、その力を引き出すようにしてやらねばと思う。子供を自立させるために、ときには、かわいい子には旅をさせろ式の強い態度も必要である修学旅行に行くときは、まず周りはみんな他人なのだということを胸にきざむように送り出す親側がまず実行してほしい。とくに父親の発言で、ケンカするなよという一言を与えるのと与えないのとでは、ずいぶんちがうのではないだろうか。中野区に知恵おくれといわれる特殊学級の生徒たちがいる。義務教育修了後は高等学校の場がないので、それを補助する意味で、毎月二回か三回集まって学習している私はその青年たちを連れて、ここ数年ずっと山登りをつづけている。

母さんもそば

何回目かにヤビツ峠から、大山、表参道と七時間くらいかかって雪どけの道を下りてきた。ほとんどが二十
歳前後の若い人たちで、職場にも出ているし、多分ビールを飲むと思って、休息の場所でジュースとビールを半々に出した。ところが、ほとんどの人がビールを飲まない。どうしてと聞くと、きょうは親に飲んではいけないといわれてきましたという。その素直さに私は胸をうたれた。学校にいたときのIQは低かったかもしれない。成績も悪かったかもしれない。
高校と作品はつくられ続けます

しつけはきびしいものですね話をきくとこうだ。


しかし親に言われたことを守って、ビールを眼の前にして飲まない若者の多いこと、なまじっか頭がよかったりすれば、親にいわれても平気でビールに手を出す子が多い中に、こういう若者たちもいるのだなとひどく感動した。
若者たちとはその一年前に千葉県の清澄寺へ行ったが、麓の花畑へ行って、芥子の花三本ずつをおみやげに摘みとるようにしたが、た。花が可哀想だという。
いくらすすめてもとらない者が多かっ花が可哀想だとは、花の立場に立った発言である。人間のだれが花が可哀想でとれないなどというだろうか。その感情移入の鋭さに私は涙が出るばかりに感動した。この若者たちの両親は、学校の成績が悪いということで、あるいは嘆いたことがあったかもしれない。
しかし、学校の成績が優秀で、自分のこときり考えられず、自分のために邪魔になると考えて祖母を殺し、自殺した少年などとくらべて、どんなにか、人間的な美しさにかがやいていることであろう成績のいいばかりが、人間の仕合わせにつながらないことを、是非、親であるひとたちに考えてもらいたいと思う。

子供がやがて

母つまり妻だ。

子どもの話を聞くどころ
これらを考えると、進学とか大きな買物とか、夏休みの過ごし方とかいうような問題については、父母合計して九〇パーセントもの相談をしているけれど、異性との遊びや、繁華街へ行くというようなことでは、小学校段階にあって、すでに親に相談しないという数字が多くなっている。
うちの子供に限ってそんなことをするはずがないという親のおどろきも嘆きも、この相談しない数字の多さの中から生まれてくる。親はどこまで相談しない子供たちの心の内部に入ってゆけるのだろうか。

何でも学校に責任転嫁しない

知りあいの教師から聞いた話がある。

子供の姿を追いかけなければならない。
二泊三日の林間学校に子供たちを連れていっ親が送りに来て、この子は寝相が悪いので直してくださいこの子は偏食ですから直してくださいなどと口々に言う。「大体親が十年間、毎晩一緒にそばに寝させて直せない寝相を、たった二泊三日、しかも何十人もの生徒を連れていく私が直せるでしょうか。偏食も、親が毎日食事をさせていて直せないのに、何で私が一日や二日で直せますか」と、その先生は親の安易な依頼心を嘆くのであった。
あるいは教師への親の甘えであるかもしれないが、理屈で考えても、そんなことはできるはずがない。なのに、そのようなことを口に出しただけで、何か親としての責任を果したように思っている親は怠けものではないだろうか。

学校生活だったことはたしかです。

そんな親に限って、子供が学校でけがをすると、学校の監督不十分だといって責め立てたりする。ある学校で、子供が一階の教室から1階の廂に飛び下りてけがをした。すると親たちの代表が学校へ来て、「廂があるから子供が代びドりるのだから、学校じゅうの廂を取り払ってください」と陳情したという話を聞いた。廂はもともとドの教室への日光の直射を防ぐためのもので、飛び下りるためにあるのではない。取り外すことはできないと,とわると、かかる殺人予備的施設を放置する教育委員会、学校の怠慢などと暴力団そこのけの脅迫的陳情をかけてくるひさしある校長が校庭に一生懸命バラを植えて育てた。

母親が思い上がってはい母親は人生の先達として陽当たりもよいし、手入れもよくてある日りっぱな花が咲いた。喜んでいると、せっかくの花をとってしまった子供がいる次の蕾が開くのを待って、ある朝、校長がその花盗人をとらえて注意した。子供は家帰って、校長先生に叱られたと話したのであろう。母親が血相を変えて、学校に飛んできて曰く、「子供の手の届くところに、なんでそんな大事な花を咲かせるのですか。子供には美しいものを破壊したい本能があります。先生がそんなにバラが大事なら、鉢で仕立てて校長室に飾っておけばいいでしょう」。
これらの母親たちを思うと、子供をどんな人間に育てようとしているのかと暗然とする廂は飛び下りるためにあるのではない。花はやたらにとるものではない。それを教えるのが教育であり、それを教えるのが母親のつとめだと思う。

子どものための遊具として積み木があ

教育をする場所は学校に限らない子供が幼稚園や保育園に入る前から、子供が物ごころついた段階で、人の物をとってはいけない、花壇や公園の花はみんなが楽しむためのものだ、他人の中に入ったら自分の思うようにできないことがいくらでもあるということ、自分を抑えなければならぬことがあることを小さい胸なりにたたきこまなければならないと思う国電現·JRの乗り降りのとき、小さな子供を連れた母親が、行列の中で子供の手を放し、早く先に行って席を取ってちょうだいなどとけしかけると、彼は大人の間をすり抜けて電車の中に飛び込み、いち早く、座席を確保してお母さん、取ったよ!

父親とのスキンシップが大きな意味をもつ。

と大声で母親を呼ぶ。母親はうれしそうにゆったりと来て、よかったねなどと、子供をほめる場面などによくぶつかる。
交通信号でもそうである。まだ赤なのに、子供からだめだと叱られていたりする。
母親が早くわたれわたれと子供をそそのかし数年前の東京都都民生活局の調査によれば、道をわたろうとしたとき、信号は赤だが車はまだこない、そのときあなたはという問いかけに対して、さっさとわたってしまうは、全体で小学校三年から中学二年男が三○·四パーセント、女が一九·七パーセント、
勿論のことだが、小学校三年生より中学二年生は五倍も多くわたってしまう。

      母公園に行く?
      子ども聴くよそしてさっと。
      勉強はいまひとつですけど


母親は人生の先達として 子どもの表情や会話に劇的な変化 子供がやがて

子どもを叱って

母さんを見る

この二つの場合に比べて若者よ驕るなかれ、と言いたいのが近ごろのお子さままかり通る世相である京都の繁華街の商店のひとに聞いたことだけれど、修学旅行の生徒が自分の店に入ってくるということは、野武士が奪略に来たくらいの心構えで見張っていなければならないのだという。臨時の要員をふやして、何か盗ったらすぐはい、お勘定と言う。どうしても目つきがキョロキョロしているから、すぐに見分けられるそうである。
スーパーなどでは、わりに万引きを見逃すこともある。その土地に定着して、お客が固定しなければ困るから、あのスーパーは、うちの子を万引きだと言って突き出したなどと言われると評判を落とす。広告代とあきらめて見逃すことがある。しかし、京都の店のお客はほとんど旅人だから、後々のお得意にはならない。容赦はしないで、あんた、そんなことをしたら警察を呼んできますよというと、ピタリととまるという。またあんたどこの学校と言われると、自分が学校の名誉を汚してはならないという気持があるのだろうか。これもあわててそそくさと逃げるという。しかしとがめられなければ、ひとの眼を盗んで、コソ泥を働らこうなどとは学生にあるまじき低劣な行動だ。学生とは少なくとも、学問に没頭する人間という誇りにかがやいているものではないのか。
母親は非芸術家的人間の典型

いじめ文化の元凶だと考えている

修学旅行における異性の問題も多い。もっとも京都というのは性の問題についてはあまりお手本になる町ではない。女の子はだれでも舞妓さんが見たいなどと言って、不思議に祇園にあこがれる。日比谷公園や代々木公園ならまだ木がいっぱいあるから、男と女がどんな恰好をしていても、本当にのぞこうと思わなければ遠くからはわからないけれども加茂川の土手などは、春になったら、待っていましたとばかり、どっとカップルが繰り出す名所でハラハラさせられる場面も少なくない。そういう光景を修学旅行中にいやでも目にするある学校の先生が、点呼後に部屋を回って人数を勘定したら、男の子の部屋でどうしても人数が一人多い。女の子の部屋では二人足りない。そこで先生は、女の子はまだどこかに遊びに行ったまま帰らないのだろうと思って、大急ぎで玄関に走っていった。

 

子どもが欲求しようとしまい

もう一人
の先生は、自分が数を間違えているのではないかと思って、やっぱり二人多い。
もう一度数え直したけれども調べてみると、女の子が男の子のふとんに入って寝ている。驚いてふとんをパッとはいだ途端、女の子は先生、エッチねと言って出てきた。ちゃんとした制服のままではあったそうだけれど、なぜこんなところにいるのかと聞くと、「まだ話が終わらないうちに消灯になったから、ここでもっと話したいと思って」。
教育や家庭環境のあり方がわいわい騒がれる。
子供を立たせることの効果

中学二年で三二パーセントとそれぞ

先生がまわりの生徒に、どうしてそのことを早く言わないのかと言ったそうだけれど子供たちのルールとして、告げ口は最大の悪徳ということがあるとかで、一様に口をつぐんでいた。カンニングを知らせるのも悪徳、カンニングを頼まれて教えないのも悪徳である。あいつはエゴイストだと言われることは子供たちにとって最大におそろしいことであるらしい。正義よりは友情であるらしい。しかし本来の友情とは何であろう。
あなたはひとの万引きを見て見ぬふりをしますかという問いに対して、注意をしますというよりは見て見ぬふりをしますという答の方が圧倒的に多いという。カンニングを見て先生に言いますかという問いに対しても、言いませんという答もまた圧倒的に多い。

子どもが二人になり三人になったとき

1000円札を拾って届けますかという問いに対しては、はいという答がわりに多い。けれども、友達がネコババをしているのを見て注意しますかとなると注意しないという答が多い。それは、後の報復がこわいからである。だから、男の子の部屋に女の子が来たぐらいのことでは、だれもとがめない。
旅の恥はかき捨てなどと言って、大人たちが海外旅行で売春婦を相手に国辱を発揮しているとき、子供たちもまた、それ相当な無恥な所業に及ぶ。
母乳だけでは不足である。

父親は社長の地位から落ちてしまうだろう


これも京都での話である。女の子たちの入浴中に男の子たちが水着を着て乱入した。先生が見つけて、何をしていると叱ったら、裸ではありませんと言ったという。逆に男同士でも、水着を着なければ浴場に入れないという子供がいる。
一二、ポルノの氾濫が子供の心をゆがめる子供たちの性についての関心は、昔も今も大変な深さだ。昔はこれを隠微なものとしてとらえたが、今は戦前では想像もつかぬまでに解放されて、性を誇大に取り上げた漫画などもいっぱいある。旅館のテレビなどにも、ひどいポルノの出るテレビがあるという。神聖であるべき性が低い興味の対象として子供たちの前に提示されている事実は心配だ自動販売機のポルノ雑誌なども、よくPTAの母親たちの問題になって、商店にかけ合うことがあるらしいけれど、母親たちの圧力くらいでは、商人は突っぱねる。