子供がやがて

母つまり妻だ。

子どもの話を聞くどころ
これらを考えると、進学とか大きな買物とか、夏休みの過ごし方とかいうような問題については、父母合計して九〇パーセントもの相談をしているけれど、異性との遊びや、繁華街へ行くというようなことでは、小学校段階にあって、すでに親に相談しないという数字が多くなっている。
うちの子供に限ってそんなことをするはずがないという親のおどろきも嘆きも、この相談しない数字の多さの中から生まれてくる。親はどこまで相談しない子供たちの心の内部に入ってゆけるのだろうか。

何でも学校に責任転嫁しない

知りあいの教師から聞いた話がある。

子供の姿を追いかけなければならない。
二泊三日の林間学校に子供たちを連れていっ親が送りに来て、この子は寝相が悪いので直してくださいこの子は偏食ですから直してくださいなどと口々に言う。「大体親が十年間、毎晩一緒にそばに寝させて直せない寝相を、たった二泊三日、しかも何十人もの生徒を連れていく私が直せるでしょうか。偏食も、親が毎日食事をさせていて直せないのに、何で私が一日や二日で直せますか」と、その先生は親の安易な依頼心を嘆くのであった。
あるいは教師への親の甘えであるかもしれないが、理屈で考えても、そんなことはできるはずがない。なのに、そのようなことを口に出しただけで、何か親としての責任を果したように思っている親は怠けものではないだろうか。

学校生活だったことはたしかです。

そんな親に限って、子供が学校でけがをすると、学校の監督不十分だといって責め立てたりする。ある学校で、子供が一階の教室から1階の廂に飛び下りてけがをした。すると親たちの代表が学校へ来て、「廂があるから子供が代びドりるのだから、学校じゅうの廂を取り払ってください」と陳情したという話を聞いた。廂はもともとドの教室への日光の直射を防ぐためのもので、飛び下りるためにあるのではない。取り外すことはできないと,とわると、かかる殺人予備的施設を放置する教育委員会、学校の怠慢などと暴力団そこのけの脅迫的陳情をかけてくるひさしある校長が校庭に一生懸命バラを植えて育てた。

母親が思い上がってはい母親は人生の先達として陽当たりもよいし、手入れもよくてある日りっぱな花が咲いた。喜んでいると、せっかくの花をとってしまった子供がいる次の蕾が開くのを待って、ある朝、校長がその花盗人をとらえて注意した。子供は家帰って、校長先生に叱られたと話したのであろう。母親が血相を変えて、学校に飛んできて曰く、「子供の手の届くところに、なんでそんな大事な花を咲かせるのですか。子供には美しいものを破壊したい本能があります。先生がそんなにバラが大事なら、鉢で仕立てて校長室に飾っておけばいいでしょう」。
これらの母親たちを思うと、子供をどんな人間に育てようとしているのかと暗然とする廂は飛び下りるためにあるのではない。花はやたらにとるものではない。それを教えるのが教育であり、それを教えるのが母親のつとめだと思う。

子どものための遊具として積み木があ

教育をする場所は学校に限らない子供が幼稚園や保育園に入る前から、子供が物ごころついた段階で、人の物をとってはいけない、花壇や公園の花はみんなが楽しむためのものだ、他人の中に入ったら自分の思うようにできないことがいくらでもあるということ、自分を抑えなければならぬことがあることを小さい胸なりにたたきこまなければならないと思う国電現·JRの乗り降りのとき、小さな子供を連れた母親が、行列の中で子供の手を放し、早く先に行って席を取ってちょうだいなどとけしかけると、彼は大人の間をすり抜けて電車の中に飛び込み、いち早く、座席を確保してお母さん、取ったよ!

父親とのスキンシップが大きな意味をもつ。

と大声で母親を呼ぶ。母親はうれしそうにゆったりと来て、よかったねなどと、子供をほめる場面などによくぶつかる。
交通信号でもそうである。まだ赤なのに、子供からだめだと叱られていたりする。
母親が早くわたれわたれと子供をそそのかし数年前の東京都都民生活局の調査によれば、道をわたろうとしたとき、信号は赤だが車はまだこない、そのときあなたはという問いかけに対して、さっさとわたってしまうは、全体で小学校三年から中学二年男が三○·四パーセント、女が一九·七パーセント、
勿論のことだが、小学校三年生より中学二年生は五倍も多くわたってしまう。

      母公園に行く?
      子ども聴くよそしてさっと。
      勉強はいまひとつですけど


母親は人生の先達として 子どもの表情や会話に劇的な変化 子供がやがて

先生への評価になってくる。

子供の世界の境がほぼ完全に失われている状態

子どもに立ち向かう親は少ないのです。
そして、青になるのを待つというのは、全体として、男が六九·六パーセント、女が八〇·二パーセントである。ところが母親のその統計はどうか。信号が赤になり車は来ない、子供がどんどんわたってゆく。そのときあなたはという問いにたいして、子供と一緒にわたってしまうという母親が、全体で二三·六パーセントもある。子供をよびかえすというのが全体として七一パーセントあるとしても、困った数字ではないだろうか。いま、車が通っていないにしても、車はいつどっちの方角からあらわれるかわからない。よびかえすか、そもそも子供を絶対にわたらせぬという姿勢があってほしいところである毎日の新聞には、子供に見せては困るような記事がたくさんある。しかし見せたくないと困ってはいられない。

先生や親に質問したりして
ひとの行為を非難するとき、自分こそ完全無欠な人間であると言たばかりの態度で、そばで見ていてはらはらする。
あまりにも子供に対して、親の権威をふりかざしたりする親もどんなものであろうか親も子供も、人間として不完全なものであり、日々におのれの非をえぐり出しさがし出して、よりよい自分をつくりあげてゆく。それが人生なのだという根本の姿勢を、父も母も失敗や挫折をのりこえて生きて来、また、生きてゆくものであることを、もっと率直に子供に語った方がよいのではないだろうか。子供がそれらの記事に興味を持っているとわかったとき、親は子供にどのように語ったらよいか。「このひとはたまたま運が悪くてつかまったけれど、つかまらなければたくさんお金が儲かってトクをした」などの考え方では子供をずるがしこい人間に育てるばかりだし、頭から犯罪者をバカ扱いして、自分と無縁のように語ることもおそろしい。

子どもの命も守る責任が出てきた。

人間がいかにまちがいをおかしやすいか、いくら学問があっても、人間としていかに弱いか、人間の心にひそむ悪の存在について、当然語られるべきであろう以前、新聞に
よその子を叱ろうという運動が関西で起きたと書かれていた。公共の場で、眼にあまる振舞いのわが子を叱らぬ母親が多いのだから、当然あってもいいことと思うけれど、実際の運動の中では、よけいな世話をしてくれるなと怒り出す母親にも出会うのではないかと思われる。

子どもとの関係で生じたときには自分本位勉強嫌いにしてしまうおそれがあります。私の友人が病気の母親の代りに、孫のPTAの集まりに出た。その地域はカギッ子が多く、母親がなかなか帰ってこないというので、一日じゅう家にいる母親たちが、何人か!
緒になって、公園や道路や自分の家の近所で遊んでいる子供たちが、危ないことや悪い遊びをしないようにパトロールをしたらどうかと提案したという。
東京都の児童生徒たちの核家族率は、約十五年前の調査で、二四·四パーセント対七三·九パーセントで、圧倒的に祖父母と同居しない家庭が多い。子供の数も一人か二人、両親は共稼ぎというのが四八·六パーセント、自家営業のように、同じ共稼ぎでも子供に眼のとどくところに母親がいる家はよいが、何らかの場所に働らきに出ているのが五。
パーセント近いのだから、子供たちの半分はカギツ子であるわけだ。

子どもに対して一緒にしてたらいい。

私の友人は娘夫婦と同居していて、娘も自宅にあって和裁の内職なので、子供は祖母も母もいる家庭にいるせめてよその子の面倒もできるならと言いだしたのだが、これが思わぬ反対を受けた。
共稼ぎをしている母親たちはそれぞれにプライドを持っていて、「うちの子のことは自分でやります。子供にもよく言ってありますから、よけいなお世話をしないでください」と言われてしまったというしかし子供に言うことと、実行されるということとは違う。親は子供に言えば責任が果たせるのではなくて、本当に自分の子供が親の言ったことを実行するかどうかを見届ける責任があると思う。そして自分の力で及ばないところは喜んで、進んで他人の援助を求め
たらよいと思う。そしていつか自分もまた、ないという誓いをこめて。

母親に変わります。

機会あれば他人を援助する、しなければなら

子供の側に立って考える

親は常に親側でなく、子供の側に立って、これが本当に子供にとっての仕合わせかどうかを考えるようにしたいと思う。子供を見るときは、親自身が子供の眼の高さに、自分の眼をすえなければならぬという。親の眼の位置で見下しては、子供の真の姿はわからない。
ある幼稚園の卒園式に行った。子供たちはみんな有名歌手の舞台衣装のような、ファッションブックから抜け出したような服装をしている。なぜ幼稚園の制服ではいけないのか。
この子たちの高価な服を買うために、母親は共稼ぎをし、アルバイトをしているのだろうかと心が暗くなった。
子供にとって、これらの服装がどれだけの喜びであろう。
私の知りあいの若いお母さんに、さんが誕生した年の初節句にお祝いにおくろうとしたら、五月人形もひな人形も飾らない人がいる。

      子供の心が不安定になるわけではありません。
      しつけています
      母さんは本当に嬉


勉強嫌いにしてしまうおそれがあります。 母親は非芸術家的人間の典型 勉強嫌いにしてしまうおそれがあります。